“1円の重み”を知る人が、中小・ベンチャー企業を支援できるーー地方拡大の舞台裏(前編)

ヒストリー
2017.07.19
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2009年は、ソウルドアウト株式会社の創業者・荻原猛にとって、株式会社オプトに入社10年の節目でした。役員にも昇格し、いくつかの責任ある事業を任されていた荻原。そのなかで、選んだのが、自身のライフワークでもある中小・ベンチャー企業を支援するという一本道、ソウルドアウト株式会社の創業でした。

KPIは訪問数! 東京、名古屋、福岡の3拠点を徹底的に足で回る

2009年も押し迫った12月16日、ソウルドアウト株式会社はオプトから分社化する形で創業しました。

きっかけはオプト社内のエントリー制度。部門長が、社員全員に対して、事業内容や体制など詳細計画をプレゼンし、認められたら実現できる。つまり自分のキャリアを自ら決めることができるシステムをオプトは導入していました。

荻原のプレゼン内容は、もちろん中小・ベンチャー企業に特化したWebマーケティング支援を行う会社を立ち上げること。

当時のオプトは株式会社電通との業務提携やリーマンショックもあり、ナショナルクライアント向けの提案活動強化へと方向転換していました。その状況下で、荻原がどうしても中小・ベンチャー企業向けサービスを残したいと、尽力し発足させた専門部署は少しずつ成果をあげていました。

荻原 「中小専属部署の成果も上がってきていたし、自分にとってもオプト入社10年目、そして子どもも生まれた。いろんな意味で人生の節目だった。このまま中小専門の特化会社を立ち上げるいい時期かなと思ったんです。」

荻原は、現ソウルドアウトCOOの山家(やんべ)秀一とふたりでプレゼンの内容をつくりあげます。設立動機はもちろん、自分たちには戦略もある。もちろん事業内容についての自信はありました。

しかし、電通との業務提携によって生まれた新たな案件は、社員にとっても刺激の多い魅力的な仕事。皆がそのベクトルに向いているときに、正反対の道を行こうとしている自分たちの事業に、はたしてどれだけの人が共感してくれるだろうか……。

プレゼン前の荻原は、結局賛同者が0名だったという夢まで見るくらい不安でした。しかしそんな不安をよそに、蓋をあけると、なんと想定していた定員を上回る応募だったのです。

荻原 「うれしくて、うれしくて。それまでにもいくつもの事業の立ち上げを見てきて、その大変さは知っているので、志をともにする仲間として、応募者のなかから馬力のあるメンバーを選びました」

東京、名古屋と福岡の3営業拠点からスタート。初期メンバーは30名。ほぼ全員が営業マンという大胆な布陣でした。そして最初に打ち立てたKPIは、受注数ではなく“訪問数”でした。

荻原 「ソウルドアウトの“ソウル”は靴底という意味も含んでいます。つまりお客様のところに足を運ぼう、と。それであればブランドも無い新会社ですから、訪問数をKPIに設定しよう、ということになったのです。でもこれが結果として自然にお客さまとの距離は近づいていきました。『お前らいいやつだから、ちょっとだけ付き合ってみてやるか』と思ってもらったのかな(笑)。そして徐々に受注が増えていきました」

いよいよ地方拡大! というときに訪れた想定外の出来事

創業1年目の2010年は、まさに足で稼いで、計画を上回る利益をあげることができ、好調な出だしをきることができました。

それまでは都内の中小企業がお客さまのほとんどでしたが、荻原たち幹部は、統計データからも支援したい中小企業の多くは地方にあると読み取れていたので、地方進出は必須だと考えていました。

荻原 「1年目である程度の業績を出せたし、そろそろ地方営業所をつくりたいなと思って、横浜、大宮、静岡、新潟の4拠点からはじめることを決めたんです」

ただし、営業所開設といっても、社員数は創業時からほとんど変わっていません。人数の制限もあります。そこで1営業所に社員ひとりという、荻原いわく“ひとり営業所”スタイルでスタートすることになります。人選にあたっては、当時の豪腕営業部長、細井康平と相談しました。

荻原 「地方営業所を立ち上げる営業マン4人を決めました。その4人はトップクラスの営業マンです。トップ営業マンじゃないと立ち上がらないだろう、という決断です。短期と長期のバランス。とっても難しい意思決定でした。」

「決めたら実行あるのみ。そして彼ら4人を呼んで、細井から『おまえは明日から新潟』、『おまえは明日から静岡』なんて辞令はそれだけ。彼らも『はい、わかりました!』なんて、普通ではできないリレーションでした。でも、やはり立ち上げ時は、鉄の結束といえるくらい熱い思いでつながっていたから、それができたんですね」

2011年の2月に横浜と大宮、3月には新潟と静岡がオープンします。さぁ、これからという時期でした。しかし、ここで想定外の出来事が起こります。荻原は「会社をたたむか否か」と決断を迫られる事態にまで追い込まれます。

そう、この年の3月11日、東日本大震災……。日本中が、大きく揺れました。

荻原 「とてつもなく大きな出来事でした……。精神的にも苦しく、何とも言えない気持ちになりました。もちろん新営業所について、撤退という議論もありました。でも、せっかく開いた営業所です。1本だけ広告をつくってすぐに撤退なんて……それも寂しいと思いました。やはり初心を貫き通そうと、続行すると決断したんです」

震災とは別に、ソウルドアウトそのものの状況が厳しいのも事実でした。トップ営業が地方へ異動し、多大な引き継ぎが発生。そのうえ本社の売上も1から積み上げらなければいけない状態。さらには震災の影響による広告出稿の自粛もありました。また新規の受注をいただいてもお客様がユーザーに商品を供給できない、というケースも起きました。

荻原 「苦しかったですね。赤字も続きました。本気で会社をたたまないといけないと思いましたね。いま思うと、これはソウルドアウトにとって最初の大きな山でした。でも私なんて比較にならない程辛い方々が前を向いて歩んでいる。弱気になってる場合じゃない、って改めて思いました」

未曾有の大震災で、誰もが想定していなかった状況。しかし、ソウルドアウトは撤退も後戻りもしませんでした。地方の中小企業への想いを、ただ真摯に実現する道を選んだのです。

足を運んで、本気で怒られて、本気で対峙して……信頼関係を結んでいく

営業所を開設して、はじめてわかったことも多かったと荻原はいいます。とくに新潟と静岡で営業するなかで、3つのことを学びました。

 

ひとつめは、東京に比べて競合企業が少ないことです。たとえば名古屋や福岡には、大手代理店をはじめ多くの競合企業が拠点を置いています。しかし、地方都市には、Webマーケティングを啓発するような企業も、気軽に依頼できる企業もありませんでした。

かといって参入しやすいわけでもありません。取引開始までの、発注に至る信頼を得るまでに非常に時間がかかること。これが2つめの大きな特徴。そして3つめは、営業窓口として、社長自らが出てきてくれる、ということでした。

まず、荻原たちが取り組んだのは、やはり“足を運ぶ”ということでした。

荻原 「地方では地元のリレーションが強く、お祭りや行事には地元企業が協賛し、行政や地銀など皆で手伝い、仕上げていく。商工会で講演があるというと、高校の先輩がいるから手伝いに行かなきゃとか。そういう密なコミュニティに外から入り込むのは難しい。だからこそ、僕らは覚悟をもって、とにかく足を運ぶ。それを非効率という意見もあるけど、結果的にはそうしたコミュニケーションの積み重ねが大切だと思っています」

その土地のやり方、信頼関係の築き方を理解してこそ、ビジネスがはじまります。そして営業所を開設して、提案していたのはリスティング広告でした。リスティング広告は運用型広告のため、クライアントの状況に応じて、運用方法を選択できます。クライアントが値付けでき、費用対効果がわかるため、企業の体力に応じた予算で出稿できます。

ある印象的なリスティング広告の事例があります。運用担当と営業担当の連携ミスで、お客さまの予算を10万円オーバーしてしまいます。営業担当は、あわてて経緯報告書を持参します。

荻原 「当然のことながらガツンと叱られた。ボコボコになるくらいに怒られました。でも、そのあと彼は、その社長に焼肉に誘われるんですね。『今から時間あるか?』って。もちろんご一緒しました。そこの場で、先方の担当者が席を外して社長とふたりきりになったとき、社長が言ったらしいんです。『自分たちのような小さな会社に真剣に向き合ってくれる会社は他にはいなかった。あんなに怒ったのは、期待していた分、悔しかったからだ。でも、これからもあなたにお願いしたいと思ってる。お願い出来ますか?』と。その社員は、このときお金の大切さを理解できた、身に沁みて思い出したといっていましたね」

中小企業にとって10万円という広告予算は決して小さくありません。以来、彼は部下に「“1円の重み”をもっと伝えないといけない」とその話ばかりするようになりました。この話を、荻原は折々に話します。

荻原 「中小企業の支援をするということは、一つひとつの事象がすべて本気なんです。だから僕らは“1円の重み”を知っていなければいけない。そこは常に重視しています。仮に、その10万円があれば、従業員のボーナスにも充てることも出来た訳だし、奥さんや子供にプレゼントだって買えたかもしれない。でもその10万円は、僕らを信じて預けてくれている。その意味を理解できるかどうか?そういう事を想像できるかどうかが僕らにとって大切なんです。それに、社長に怒られるのは最高の経験。それをみんなに伝えてくれたから、その意識を共有できるんです」

そのマーケットを創るのは、俺たちだろう?——ミッションが勇気になる瞬間

「もう、嫌だ。辞めたい」——。

 

これは、地方営業所に配属になったメンバー全員が、必ず一度は荻原に吐露した言葉。もともと営業所配属になるメンバーは、オプトのような大組織でトップを走ってきた有能な人材ばかり。オプト時代はアシスタントもいるし、社内外でもトップ営業としての待遇が当然です。

ところが、営業所では誰も手伝ってくれない。すべての意思決定をひとりでしなければならない。さらに地縁のない環境で……、その待遇はあきらかに雲泥の差です。

荻原 「みんな最初は『僕が、その地域を拓いてきます!』と熱意にあふれて赴任しますが、知り合いが誰ひとりいない土地で、会社と家の往復の繰り返しの日々はきつい。そりゃ弱音を吐きたくなるでしょう。僕だって一人で赴任すれば、そうなるだろうってことを容易に想像できます。会社も立ち上げ、営業所も立ち上げる。想像以上に精神的な負荷があったでしょう」

もちろん辛いのは営業所のメンバーだけではありません。皆がそれぞれの場所で戦っている。それをお互いが理解できているからこそ、頼るのも申し訳ない、という気持ちにもなってしまう。皆で乗り切るべきところ、相手を思うがあまり、そんな循環が出来てしまい、一人で抱えてしまう。だからこそ「辞めたい」というつぶやきに、荻原は丁寧に言葉をかけていきました。

荻原 「地方営業所の立ち上げは誰がやっても失敗するといわれてはじめた状況だから、いま辛いことは十分わかる。でも、いま辞めてしまったら、向こう10年は同じことをやる人間は出てこない。いまこそ歯を食いしばって乗り越える時期だし、地方のマーケットを伸ばしていくのは俺たちだろう!って啖呵をきってね」

その辛さを言葉のとおり、荻原は十二分に感じていました。自分自身も弱気になるときがあるからです。人間はバイオリズムがあるから落ち込むのは当然のこと。ただ使命感や仲間がいれば、落ちても必ず浮きあがると荻原は信じています。だから、ミッション=使命を帯びた情熱を思い出し「呪文のように何度も伝えた」のです。

そうした一人ひとりの熱意は時間とともに、着実に地場の中小企業の方々に伝わっていきました。新潟に顕著な事例があります。

新潟を任されたのは新卒2年目の葛谷(くずや)篤志。窓口となった先方の社長いわく「インターネットを活用して会社を大きくしたい、でもやり方がわからない」。営業に同行した荻原は、葛谷と「いっしょに、お客さんを成長させような!」と言葉を交わしました。

それから、その企業はたった1年で年商は約5倍へと躍進を遂げました。そんなある日、荻原はその社長から「紹介したい子がいる」といわれます。新潟に知り合いはいないし、誰だろうと思っていると……現れたのは、その企業の新入社員2名でした。そのとき荻原は、あることに気づきます。

荻原 「僕たちがやっているのはマーケティング支援だけれど、お客さんの売上があがれば、結果として地方に雇用が生み出される。そんな当たり前のサイクルに気づいたんです。その後、葛谷と飲みに行ったお酒は本当においしかった(笑)。忘れられません。そうか、僕たちソウルドアウトがやっていることは、こうことじゃないかってね」

東日本大震災で、一度は会社をたたむことまで考えた荻原。苦悩に苦悩を重ねた末に継続を決断。そして、それを皆で一丸となって乗り越えたとき、ソウルドアウトの創業時には気づいていなかった存在意義を、確かに見つけることができたのです。

しかし、これはまだ序章にすぎませんでした。手応えを得た荻原は、さらなる営業所の開設、つまり地方の拡大へと動きはじめました。

パンくず