正反対だからこそ、No.2を任せられるんです

ヒストリー
2018.03.19
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【社長と対談シリーズ】第9回は、荻原がソウルドアウト立ち上げの最初のパートナーとして選び、現在まで取締役を務める山家秀一。「立ち上げの誘いまでは、2人で話したこともない」と言うほどに、正反対の二人。そんな山家を、荻原がNo.2に選んだ理由とは?ソウルドアウト創業の夜明け前、そのストーリーを伺います。

荻原 猛(おぎわら たけし)
代表取締役社長
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荻原 猛(おぎわら たけし)
1973年生まれ。中央大学大学院戦略経営研究科修了。経営修士(マーケティング専攻)大学卒業後、起業。2000年6月に株式会社オプトに入社。2006年4月に広告部門の執行役員に就任。2009年に当社を設立し、代表取締役社長に就任。著書に『ネットビジネス・ケースブック』(2017年 同文舘出版 田中洋共著)がある。
山家 秀一(やんべ しゅういち)
取締役(株式会社テクロコ代表取締役社長)
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山家 秀一(やんべ しゅういち)
1980年生まれ。グロービス経営大学院(MBA)修了。2005年に株式会社オプトに入社。コンテンツ・アフィリエイト部長、BPR部長を経て、当社設立時に取締役として参画。2018年より当社取締役 兼 株式会社テクロコ代表取締役社長。

普通の真面目な好青年、というイメージでした

―――荻原さんは立ち上げの誘いをするまで、山家さんとそんなに話したこともなかったと伺いましたが…

荻原:そうですね。業務でのかかわりも全然ありませんでした。もちろん遠くから仕事をする姿を見る機会はあるので、「現場で頑張ってる、すごく真面目な好青年」というイメージでしたね。

山家:全体的に尖った人が多かったですからね。

荻原:山家とのかかわりが多くなったのは、オプトの中で、経営者を目指す社員のために内部研修があるんですが、そこに出ていた時だったかな。

山家:僕は、その経営者研修1期生なんです。

荻原:基本的には部長とか本部長以上が出るような研修で、課題ごとに点数をつけられて、どんどん振り落とされて行くんだけど、最終的に生き残った10名ほどの中に山家がいた。山家は当時部長でしたね。他は本部長や役員ばかり。その研修で山家がする質問とか答えがあまりにも経営のことが分かってなくて、「こいつ、何にもわかってねーな。」って思ってたんですよ(笑)。

山家:当時、例えばバランスシートとか全くよめなかったですからね。

荻原:でも、そういう経営の基礎が何も分からないのは仕方がなくて。当時、大規模なマネジメントの経験もないし、経営者として学べるような場所も与えられてなかったから。

山家:中途入社2年目、27歳の時でしたね。

荻原:最初は、僕が思わず笑っちゃうような質問や回答があったんですけど、山家のすごいところは、あの経営者育成研修にめちゃくちゃ真剣に向き合っていたんです。他の先輩方が途中で離脱していく中、メチャメチャまじめにやってるから、回を追うごとに、真面目に取り組んでる山家の回答が段々鋭くなっていって、他のメンバーよりも優秀に見えてきたんですよ(笑)

山家:こう見えて根は真面目なんです、意外と。

荻原:あれは印象に残ってますね。こいつは、本気で経営を学びたいんだな、というのがバシバシ伝わってきた。あと、もう一つよく覚えているのが、BPR部※に移ってから、山家は僕に対してどんどん提案をしてきた時。あれは、記憶に鮮明に残っていますね。山家にとっても人生の転機なんじゃないの?

山家:そうですね、2008年からBPR部※を立ち上げ、全社改革に取り組みました。

荻原:僕が見たこともないような色んなデータを持ってくるんです。それが結構、衝撃でしたね。収益構造とか生産性とかを、どんどんデータ化して、分析して持ってくる。それで営業の役割とか、組織設計まで山家が提案してくれたんです。しかも、当時の山家の上司が言っていることをかみ砕いて本質的な部分を突いていて、かつそれを空気を読まずに提案してくるから色々な意味でインパクトがありましたね。

山家:本当に会社を何とかしたいなと思って、ピュアに提案をしていましたね。当時の僕の上司はまだオプトに来たばかりだったこともあって、売上の大半を担っていた荻原さんには、まだまだ遠慮があったと思います。

荻原:その上司の言っていること、あるいは分析から出てくる仮説が正しいと思ったら、山家がガンガン提案持ってくるんです。しかも、それがめちゃくちゃ刺激的で。この会社で、僕にこんなこと言う奴がいるんだ、と思ってびっくりしていました。それが、オプト時代の山家の印象ですね。

※BPR部(ビジネスプロセス・リエンジニアリング部)

会社の立ち上げの誘いは、神保町地下の焼き鳥屋にて

―――それでその後、荻原さんは会社を立ち上げていくんですね。

 

荻原:そうです。2009年頃から、鉢嶺さん(現オプトホールディング代表)に、ソウルドアウトの立ち上げを提案していました。その時、聞かれたのがNo.2として誰を連れていくか。僕としては、真逆のタイプの人間を連れていきたいと考えていて、山家しかいない、と思いました。それで、鉢嶺さんの許可をもらって、すぐに山家を口説きに行ったんです。

山家:例の経営者研修の終わった後ですかね。今まで一度も飲みに行ったこともなかったのに、急に誘われて。

―――飲みに行ったこともなかったんですか。

荻原:ないない!仕事のかかわりも、直接的には全然ないし。

山家:だから、誘われた時「なんだろう?」とホントに思いましたね。しかも、行き先も変な狭い焼き鳥屋で。神保町のすずらん通りの地下にあって、しかもオプトにすごく近いところにある。

荻原:それで、僕はこういう会社を立ち上げるという話をして、一緒にやらねーか、って言ったんです。

山家:本当に普通の焼き鳥屋だし、個室でもないし、近くにオプトの人もいるかもしれないのに、よくそんな話をするなって思いましたね。

荻原:全然気にしない(笑)でもさすがに山家もびっくりしてたし、「迷ってるな、考えているな」っていうのは分かったんです。その映像はすごく覚えてるんだけど、「今、答えないとダメですよね?」って言ったよね。

山家:言いましたね。荻原さんは営業だから、即決を求めてるの、分かってましたから。

荻原:だから、「当たり前だろう、今日に決まってるでしょ」って僕も言ったんですよ。そしたら、その場で山家はやりますって言うから、大喜びして、すぐに鉢嶺さんにも報告しましたね。

―――そんな急な話だったのに、山家さんはどうして引き受けようと思ったんですか?

山家:やるからには責任がある大きな仕事をしたいとずっと思っていて、30歳までには経営者になりたいと考えていました。そのために、その年はMBAにも通い始めていたんです。

荻原:MBA取得って、何百万ってお金と、時間もかかるからね。それにも山家の本気が感じられた。

山家:その年は、オプトの経営者研修もあったし、MBAとの両立は本当に血を吐くような思いでしたけど。

MBAを取りに行く時って、入学の志望動機とかを書かされるんですが、その時に僕は「地方に貢献したい、地方をなんとかしたい」というのを書いていたんです。

―――それはなぜだったんですか?

山家:当時の僕は、何か具体的にこういう事業の経営をしたいというテーマがなかったんですね。ただそんな自分でも、嘘偽りなくやってみたかったのは、「地方に貢献すること」だったんです。僕は宮城出身なんですが、そういう生まれ育ったところに貢献するようなこと、地方を元気にして、恩返しするようなことをしたい。それこそ、親孝行をしたいとかそういうのと同じような感覚です。

荻原:それはいい話だよね。

山家:嘘はなかったですね。ピュアな気持ちでした。

荻原:若い頃って、自分が何をやりたいかなんて、分からないし、決まっていない人がほとんどだと思う。山家でも30手前くらいまではそうだったけど、それでもこうやって経営ができるようになる。

山家:そうですね。地方の企業のほとんどが中小企業だとわかっていたので、もともと地方や中小企業に対してMBAで学んだことを活かそうと考えていました。あと、BPR部の経験もやはり影響がありました。

荻原:そうなのね。それはどういう部分で影響があるわけ?

山家:BPR部であげていたオプト改革の論点に、「取引額が小さいクライアントをどうするか」というのがあったんです。例えば営業マンが予算1億円の大手企業と、10万円の中小企業のクライアントを担当していたら、どうしても中小企業への支援は手薄になりがちになる。これは誰にとっても良くない。一方、オプトという会社としては、予算が小さくともできれば支援したい、何とかならないだろうか、そう思っていました。そういう悩みが2005年くらいからずっとありました。

荻原:当時は、ちょうど大手企業の広告予算がネットに大きくシフトしてきていたこともあって、大手企業支援を優先せざるを得ない、という雰囲気も強かったしね。

山家:だから、荻原さんから中小企業支援専門の会社を立ち上げたいと言われた時、オプトの中にそういう課題があったのも分かっていたので、BPRで間接的に解決していくんじゃなくて、その課題解決に自ら直接取り組むのも1つの貢献のあり方だと思いました。当時の上司も奥さんも、応援してくれる顔が明確に想像できたので、その場で「やります」と答えました。

荻原:あの頃は子どもはいたよね。

山家:いました、生まれたばかりです。子どもが産まれたのは2009年、なのでソウルドアウトと同い年。というか、荻原さんの子どもも同い年ですよね。家庭も大変な時期だったのですが、勝手に決めてくる僕に文句も言わず、自由にやらせてくれた妻には本当に感謝しています。

創業のプレゼンテーションをしたら、No.2希望者が何人も名乗り出る

―――それで創業準備が始まるんですね。

山家:2009年の9月ぐらいから、本格的には動き始めましたね。

荻原:やると決めたら、どうやって勝つかの戦略とか、事業計画とかを山家が調べて考えて、PowerPointにまとめて、僕のところに持ってきてくれる。それを毎日、業務時間外にずーっとやってたの。

山家:会社設立するための登記のような法的手続きから、立ち上げ後にどうやって勝っていくかの戦略、オプトの役員会のためのプレゼン資料から・・・最後オフィスをどうするか、とかそういうのもやっていました。

荻原:そう、全部やってくれた。当時、2009年はリーマンショックの後だったし、僕は最大事業を任せてもらっていたので、あまり時間を割けなかったんです。そういう時に、色んな資料を作ってきてくれて、どう話せばいいのかまで教えてくれる。僕がするのは、役員とかにプレゼンして合意を取ってくること。いかにも自分がつくったかのように話してたけど、あれ大半は山家が作ってくれた。

山家:普段、荻原さんはExcelの資料なんて作らないから、すぐに僕が作ったって、他の役員陣が気づいたんですよね。

荻原:そうなんです(笑)でもそうやって山家とうまくやってることに、皆喜んでくれましたね。そういうのは、本当に山家にたくさんやってもらいました。山家は整理してくれるのが得意だから、僕が話した内容をどんどん資料に落としてくれて、それが会社を設立するときのプレゼンの元になった。僕がはじめに鉢嶺さんに出した時から比べると、かなりブラッシュアップされた。

山家:そうですね、その頃は本当にこまめに打ち合わせをしてました。だいたい週末に、飯田橋の珈琲館に集まってましたね。ちなみに荻原さんの子供が産まれた時も、一緒にいたんですよ。

荻原:そうそう!あの時はさすがに急いで帰ったよね。そういう生活を3~4か月続けてた。平日から週末まで、本当に忙しかったけど、とても充実していた。あと、オプトのオフィスの中じゃなくて、違う場所で別会社化するって決めた時も面白かったね(笑)

―――何があったんですか?

荻原:当時オプトのオフィスは神保町にあったんだけど、別会社化するにしても、同じオフィス内でやってほしいっていう要望が強かったんです。ただ、僕たちは違う場所に出たかった。

―――それはどうして?

荻原: 1番の理由は、オプトと同じオフィスにいたら、メンバーが自信喪失しちゃうんじゃないかと思ったんです。オプトの案件は大企業がほとんどで、それに比べると僕たちの会社の案件は中小企業。だからどれだけ誇り高いことをやっていても、ついつい取引額で比べちゃうこともあるんじゃないかと思ったんです。でも、オプト側にしてみたら、一緒のオフィスにいてほしい。

山家:ビジネスモデルが似ているならば、シナジーもあるし、一緒にいた方が良いというのが定石だと思いますが、僕たちは独自の文化を創ることを、最重要と定義しました。つまり、表面上は似たビジネスにみえますが、本質は全く違うと考え、その実行ツールとしてオフィスを別にすると決めたんです。一方で、あの時のオプトは、なんというか親が子を思うような気持ちというか、心配だから身近にいてほしいみたいな気持ちですよね。

荻原:そうそう。だから「オプトから走って1分にあるオフィスにします!」ってプレゼンを山家が用意したんです。普通は徒歩でしょ、走るってどういうこと(笑)

山家:あれは、笑いが起こりましたね。「役員会の資料に、こんな書き方あるか!」って。実際は走っても2分はかかりましたがそれは内緒です(笑)

荻原:結局最後は理解してもらい、オプトから離れた場所で別会社化するってことになった。でもオプトもオフィスがパンパンな状態でしたから、お互いにとって良い決断だったと思います。

荻原:そして、オプトの全社会議での創業メンバーを集める日をむかえる。あの日の資料もね、ほとんど全部山家がつくってくれた資料で僕が話したんです。そのプレゼンの後で、めちゃくちゃたくさんのメンバーからプレゼンをほめられて、いろんな奴がソウルドアウトに行きたいって言ってくれたんです。

―――それはすごいですね。

荻原:中には、ソウルドアウトにNo.2として入りたいって言うメンバーも何人かいて。でも、「もうNo.2は山家に決めちゃってるから」って言うと、えっ?って顔をするんです。

―――その発表では、山家さんはどこに?

山家:僕はすみっこで、ひっそりとプレゼンのスライド切り替えをやってました。

荻原:確かに僕もプレゼンの中で、山家の名前は一回も紹介しなかったし、黒子に徹してくれてたから、あまりにも目立たなくて。

山家:当時の荻原さんは、500~600人の組織の頂点にいましたからね。荻原さんの元部下だったら、皆いきたいって思うのが分かってました。だから、僕がNo.2でいいのかなとは思ってましたね。

荻原:いやいや。僕がめちゃくちゃ覚えているのは、その資料のパワポ切り替えるタイミングが完璧だったのをよく覚えてる。

山家:なんですか、それ。

荻原:息は合ってたってことだよね(笑)

提供サービスを運用型広告に集中。社員の反発はあったものの、創業後3年の業績は絶好調

荻原:だけど、本当に大変だったのはソウルドアウトを立ち上げてから。苦労したことはたくさんあるけど、山家は何が大変だった?

山家:最初のヤマは「提供サービスを運用型広告に集中したこと」ですね。当時はまだディスプレイではなく検索連動型のリスティング広告が主流でした。

―――なぜ、リスティング広告にフォーカスしたのですか?

山家:クライアントにとって、費用対効果が最も良い手法だったからです。僕たちが支援したい中小企業は、そんなに広告費が大きくなく、先行投資の財務体力もあまりない。つまり、売上に直結する手法を求めています。だから、検索結果に広告を表示して、顕在層に確実にアプローチできるリスティング広告が、最も提供すべきサービスだと考えました。

荻原:選択と集中だよね。

山家:そうです。提供サービスを絞り、クライアントの売上を増やす実行に資源を集中しました。

荻原:でも、反発もあった。

山家:広告をやっていて楽しいのって、やっぱり企画だったんですよね。この媒体を使って、こういう訴求で、こういうクリエイティブにして…とかそういう。それが楽しくてやっていた人たちに、そういうのは今後は一切やらない、運用型広告に集中する…と伝えたわけですから、そりゃーもう反発がすごかった。「運用代行専門会社になるんですか!?」って多くの社員に反発されました。

荻原:あれはすごかった。反発というか怒ってたメンバーも結構いた(苦笑)

山家:その後にオペレーションを定型化していったら、「僕たちはロボットですか!?」って言い出す社員もいましたよね。そうじゃないんですよ。作業を定型化したら、そういう部分はアウトソーシングするか、テクノロジーで自動化して、社員は人しかできないような付加価値の高い仕事に対してもっともっとコミットすればいい。それはクライアントにとっても、社員自身にとってもいいことだ・・・と伝えても、なかなか簡単には納得してもらえなかった。

荻原:急な大変革だったからね。仕方ないよね。

山家:当時、就任したばかりのオバマさんがよくメディアに取り上げられていて、それを真似して1年目のスローガンを「change」にしました。今までのやり方ではダメなんだ、と。例えば、ローコストオペレーションが重要だ、と頻繁に話しました。その為に、A.T.カーニーの方が書いた「最強の営業戦略」、ユニ・チャームの事を書いた「SAPS経営の原点」など、営業を科学する本を社内で広めたりもしました。とにかく従来の広告会社のように、俗人的に深くクライアントを支援するのではだめで、オペレーショナルエクセレンスになっていかねばならない、その両方が必要だ!とよく言ってました。まだまだ道半ばですけども。

荻原:そうそう。当時、そういうことをいってる広告会社って絶対なかったし、もっと言えば中小企業向けを名乗る広告会社もなかったからね。そういうWebマーケのフレームワークとかもなくて。

―――Webマーケのフレームワークですか?

山家:例えば、Webマーケを「集客」「接客」「再来訪(追客)」の3つに分けて僕らは考えたりすると思いますが、2010年当時はそういう分け方が検索しても出てこない時代でした。何か中小企業の方にとって分かりやすい言葉・分け方がないかと思って探したんですが、見つけられなかったので作りました。

荻原:今は、結構使われてるよね。多くの人は専門的なカタカナ用語を使いたがるけど…。

山家:これからWebをやっていこうと思っているようなクライアントは、まだまだ知識も少ない。伝わらないと意味がないですからね。できるだけ、わかりやすい言葉・日本語にしてあげたかったんです。荻原さんは組織名称はできれば漢字が良い、と今でも言ってますよね。

荻原:そうね、一貫性が大切だと思うんだ。そういう「中小企業支援をする文化を創っていくこと」は、確かに大変だったよね。自分も元々大手企業向けの営業やっていたから、社員の反発する気持ちも痛いほど分かった。けれども、ずっと同じことを言い続け、その言葉が行動に、行動が文化になっていった。反発はするものの「納得はできないけど、でもまずやってみますよ!」と、信じ続けてくれた仲間に感謝したい。

反対の意見を言ってくれることを、取締役に求めている

荻原:山家はね、僕が理想を語っても、合理的に判断してどんどん切っていくんです。もう6割くらいは否定されちゃう。

山家:そんなことないです。もうちょっと拾いますよ(笑)

荻原:いやいや口ではそういうけど、実際はバンバン削ぎ落とされてる(笑)なんでも賛成するってことは絶対にないよね。

山家:僕、これでも意識してそれをやってるんですよ。荻原さんが、最初に創業のプレゼンした時、手を挙げてくれたのは、荻原さんとの関わりが深いメンバーが多かったんです。荻原さんが右って言ったら、皆で右を向いちゃうみたいな感じ。

荻原:そうだよね(笑)

山家:それは、経営においては良い部分でもあるけれど、リスクでもある。だから、意識して僕が反発というか否定して止めに行かないといけないと思ってきました。だから嫌われようが何しようが、僕が言う、と。

荻原:山家は、「皆が言いたくないことも言いますよ」って前提で言ってくれるから、何とも思わないんです。確かに聞きたくないこといっぱい言うなって思うし、聞いた瞬間は、カチンと来ることもありますけどね(笑)多分、山家が僕よりもずっと年下なのもいいんです。

山家:7歳差ですからね。

荻原:山家は弟みたいな存在なんです。同い年だったら、ライバルみたいな感じになりやすいけどね。これだけ離れていると、可愛いというか(笑)ライバルっていう気分にはならないですよね。

――でも、その年下の役員からの否定を受け入れる度量はありますよね。

荻原:いやいや。 チーム経営ってそういうものなんですよ。そういえば創業から3年くらいは、週2回くらいは山家とランチに行ってなかったっけ?

山家:行ってましたね。神保町にある「アルカサール」っていうハンバーグ屋が多かったですね。あと山形そばの「河北や」。

荻原:懐かしい。ランチの後も、喫茶店にいって打ち合わせしてたから、相当密だったと思うよ。

山家:朝も昼もガッツリ話してましたからね。

荻原:創業のプレゼンもそうだけど、周りからは山家の存在があまり見えないから、僕が全部やってるように見えてるだろうけど、全然違うんだよね。タイプは真逆だけどね。だからこそいい。

山家:創業のときから今でも、僕は自分のことをブレーキ役だと思っているんです。みんなが言いたくないことは僕しか言えないと思っています。

荻原:そう、誰かが言わないといけない。でもさ、山家はブレーキじゃなくて、むしろアクセルだと思うことのほうが多いけどね。

山家:僕の中ではそういう感じなんですよ。荻原さんを牽制するというか、適切に動かすっていうのが僕の仕事ですから。

荻原:自覚がないって言うのは、幸せな奴だなって思うね(笑)あと、山家は合理主義で破壊者なところがいい。さっきのプロダクトの話もそうだけど。

―――破壊者、ですか?

荻原:歴史上の人物でも、いろんな古いものを破壊して新しい秩序を創ってきた人は、合理主義者なんです。例えば、織田信長とか明治維新の大村益次郎とか、まさにそうで。僕はもし戦国時代にいたら、きっと伝統とかそういうものを大切にしたいと思う。でも山家なら、昔のしきたりを破壊できる。

山家:「そんな重い鎧で、馬に乗って何するんですか?遠距離から攻撃できる武器があるんで使った方がいいですよ」とか。

荻原:そうそう。で、こっちが渋ってる間に、誰も勝てなくなっちゃう。そういうのが創業の時からわかってたんです。僕にはできないけど、山家はできる。だから、組織の仕組みの土台つくりは全部、山家に任せていました。山家が作らないといけない、と僕もわかっていたんですよ。

山家:当時のメンバーは、オプトの営業出身者が多かった。良い所は活かしつつ、戦略と合わない所は、それまで大切にしてきたものでも壊していく。でもとても抵抗がありますよね。

荻原:僕はどっちかというと、豊臣秀吉タイプだから、どうしても信長にはなりきれない。でも山家は違う。そういうエピソードは本当にたくさんある。

山家:とはいえ、僕がそういうことを言っても、本当に受け入れてもらえるのには3年くらいかかりましたよね。

荻原:そりゃそうだよ。頭ではわかっても、なかなか気持ちがついていかないとか。時間が経つうちに、山家の言っていることの正しさが僕も、メンバーも皆わかっていったから、変われたよね。

山家:荻原さんでも、そういうことがあるってことですよね。でも荻原さんには、それを受け入れてくれる度量があります。やっぱり人間って変化を嫌うんですよ。そうなんだけど、そこに向き合って受けいれる努力をしないと、一生受け入れられないまま、逃げてしまう。

荻原:そうだよね。

山家:だからさっきも言いましたが、創業1年目、2010年のソウルドアウトのスローガンを、「change」にしたんです。

荻原:僕たちは、中小企業向けにchangeするんだ!っていうメッセージだったよね。ダーウィンが「生き残るのは、強いものでも賢いものでもなく、変化できる生き物だ」って言っていたように。

―――プロダクトも、考え方もどんどん変えていく。

荻原:そうです。こういう破壊は、山家みたいな奴だったからできたんです。他じゃ、誰もできない。だから、山家をNo.2として選んだ。それで、紆余曲折もあったけどちゃんと利益を出しながらやってこれている。

山家:とはいえ、自分でいうのもなんですけど、破壊者っていう言葉ほどは、冷酷な人間ではないですよ。小心者だし、人に対してもとてもウェット。でも荻原さんは僕とは比較にならない、人がすべての人。社員やお客さんが大好きで、本当に義理とか人情とかを大切にする。それを貫けるのは、本当にすごいことだなと思いますよ。

荻原:役割分担だよね。

山家:みんなが言ってる夢を叶えようと思ったら、誰かがやっぱりドライになってやらないといけない。それぐらい改革をしないと、成し遂げたい中小企業支援とか地方を助けるとか、言葉で言うのは清らかで美しいけど、全然簡単でもなんでもない。

荻原:確かに。

山家:誰かがやらないといけないから、僕がやってる。だから北風と太陽に役割を分けて、この会社では北風に徹する、そう心に決めてやってきました。表にもでない、と。

荻原:決めたほうがいい、絶対。お互いにとっていいんだよ、それが。

―――そういえば、創業時の管理職の方は、どなたも退職していないですよね。山家さんも含めてですが。

荻原:そうなんです。しかも今、役員室があって、取締役は毎日顔つき合わせて仕事してます。

山家:外部の経営やってる方々からは「気持ち悪い、よくそんなに一緒にいれるね」って言われますよね(笑)

荻原:取締役っていうのは、喧嘩するにきまってるからね。目的も、目標も一緒に掲げているけど、最適だと思う解が違うからね。イデオロギーの戦いみたいなものだから。

―――役員室を作ったのは、何故なのですか?

山家:1つは経営の意思決定スピードを上げたい、ということ。組織が大きくなると時間が合わなくなるんです。一方でそれぞれが権限を持ち、意思決定すればいいのですが、さすがに一人では決めれないこと、決めてはダメなことが多々出てくる。でも、役員室でいつも顔を突き合わせていれば、すぐに議題を出してその場で決定したり、解決できる。

荻原:あとは、社員側の負担を下げたい、というのもあったよね。承認をとろうとしたとき、取締役をつかまえるのって、ぶっちゃけ社員からしたら相当面倒だと思うんです。あまり会社にいないし。でも、役員室にいけば、まとめてつかまえられる可能性が高まる。今日、どの取締役が何しているかという情報も得やすい。社員と取締役の両方にとって楽なんです。

―――合理的ですね。

荻原:そうですね。でも一日中、顔を突き合わせていられるのは信頼関係があるからこそ、ですね。

―――2010年という創業1年目のお話を中心に伺ってきましたが、その頃を思うと今のソウルドアウトグループはどう見えますか?

荻原:今思うと、本当に大きくなったからね。感慨深いですよ、本当に。山家の目からはどう見える?

山家:本当に感慨深いですね。でも、良い意味で意外性はありません。創業前に荻原さんと飯田橋の喫茶店で何度も何度も会話して創った構想を、1個1個実現しているだけ、そしてそれはまだまだゴールには程遠くて、マラソンでいえば4キロ地点くらいのランナー、という見え方でしょうか、今のソウルドアウトグループは。やろうと思っていることは何一つ変わらないですね。

荻原:高い理想を掲げてよかったよね。

山家:一方で、そういう経営陣の想いが、社員に伝わりにくくなっているとは感じますね。社員が30人とか50人の頃は、荻原さんが一声かければみんなに伝わっていたのですが。もっと工夫しないと駄目ですね。

荻原:もう社員数は200人超えてるからね。

山家:伝わらないから現場の社員が不安を感じる。それについては、昔以上に考えて行動して、仕組みをつくらないといけないと思っています。

荻原:これからも、まだまだやることがたくさんあるね。引き続き力貸してください!一緒に頼みます。

パンくず